久し振りに橋本治(1948生まれ)の新作(2014年7月)を読みました。
28歳の主人公の倫子は結婚を意識し始めます。倫子は千葉出身、両親は教師、東京の大学を出て旅行会社に勤務、真面目で、それなりに熱心に仕事をしています。若い社員の多い会社で、まあイケメンと言われる部類の男性の多い職場です。都内で一人暮らしをしています。
倫子にはホテルに一緒に行く男友達はいたり、いなかったり。倫子はあるとき、女が35歳を過ぎると卵子が老化し、妊娠しにくくなるというNHKのテレビ番組を見てショックを受け、同僚の花蓮に卵子老化の話をするところからこの本が始まります。
倫子の柔道バカだった3歳上の兄(地方公務員)が同僚と結婚し、子供もでき、母親からの結婚のプレッシャーも感じるようになります。そして、会社の友達の花蓮が人のよさそうなエリートサラリーマンとの結婚を決意します。一方結婚に結びつかない関係しか持てなかった倫子は「人はなぜ結婚を?」と考え始め、ついに婚活を決意します。
倫子のように、仕事をし、自活し、適度な距離に家族もいて、話の合う女友だちいる。その気になれば彼氏も見つかりそうという女性は結婚するのに「スプリングボード」が必要だと言う。
友達のTさんが「今、普通につき合って(恋愛して)、婚約して結婚して子供ができるという普通の順番通りにいく子供世代がとても少ない」と話していました。
我が家を見ると息子はこの順番通りでしたが、娘はそうではありませんでした。
今、結婚するのもしないのも自由となり、結婚するのに自分自身を納得させる理由が必要な時代となったようです。男性とセックスするバーも低くなり、人恋しくなったとき、嫌いじゃなければいいという女性が多くなってきたようです。倫子も男友達との関係を「ホテル行ってセックスしているだけの関係」で、「身に沁みない」といい、「恋愛」ができないと花蓮に語る。どうしたら結婚というステップに辿り着けるのかがわからない。
「結婚しない自由」と言われだしたのはバブルのころ、均等法ができた1985年頃からでしょうか。もっと前からでしょうか。私の世代では25歳を過ぎるとクリスマスケーキ(売れ残り)と言われていました。結婚しないのも自由だとは思っていましたが、女性が安定した職業に就くのが難しかった時代で、専門職(医者や弁護士など)か教師か公務員という限られた職業の時代でした。
結婚するのが当たり前で、いつかは結婚して子供を育てるという人生を送るものと思っていました。
それが結婚せずに働く女性が「負け犬」と称する自虐的な言葉が出てきたのは10年ぐらい前でしょうか。
結婚に適齢期がなくなりましたが、出産には適齢期があることを知り、今は卵子を冷凍にする時代となりましたが、これで何も問題はないのでしょうか。
未婚女性たちが漠然と抱えている「結婚」への期待と、それを大きく上回る不安。これは今も昔も同じだと思います。お世話焼き夫人がいなくなった今、マッチングをするパーティーや結婚相談所で婚活することになるのでしょうか。
結婚したいのかと自問すれば、“そうじゃないな”、女は男と結婚するのではなく「自分の結婚と結婚する」と倫子は思うのです。
いろいろな意味で人は自立するとそれなりの自由と責任が生じます。余裕のない社会の中で若い人はその自由と責任に押しつぶされそうになる時もあるでしょう。
私は学生の頃から、親の庇護の下にいる間は自由ではない、そこから出て、自立すれば自由になれると思っていました。自立の手段として就職と結婚があったような気がします。何たる勘違い。。。それから40年以上経ちました。
問題提起としては面白かったですが、小説としてはどうでしょうか。同じようなテーマで女性作家が書いた本を読んでみたいです。
テーマ : 日々のつれづれ - ジャンル : 日記